世界的な普及発展をみせる空手・古武道の発祥の地が琉球(現在の沖縄)であることはよく知られている。空手は元来『手』と呼ばれ、三系統に分かれて発達してきた。

『手』は、琉球王国の首都であった首里を中心に士族の間で秘密裏に継承された「首里手」、王府の貿易港、塩田として栄えた泊を中心に継承された「泊手」、商業の中心地、貿易港として栄えた那覇を中心に継承された「那覇手」の3つに分かれている。

現在、日本にある空手と認められた流派はこの三系統のいずれかに属する。最も歴史の古いのが首里手であり、その技法を完成させた中興の祖と呼ばれる人物が「松村宗根(1809年~1899年)」である。松村は王家の武術指南役を務め、また公には国史として中国福州や薩摩藩へと派遣されるなど、まさに文武両道の君子であった。

松村の門下からは優れた武人が輩出された。糸洲安恒もその一人で、彼の門弟からは多くの流派が生まれ代表な流派名をあげると少林流、少林寺流、小林流、松林流、糸東流などがある。他にも安里安恒が松村の高弟として有名であり、彼の弟子の富名腰義珍は後に松濤館流を創始した。

少林流松村正統の流れ

沖縄の武人が広く門下生を募り、道場を構えることは、当時の琉球では一般的なことではなかった。その為、松村の高弟には終生弟子を取らなかった者が多い。松村の息子や孫もまたそうであった。松村直伝の首里手・古武術は、当然その息子や孫にも伝えられたが、二代目松村は早世している為、三代目の松村虎寿(通称:松村ナビィー翁)はその技の多くを晩年の松村宗根から直伝された。三代目松村も弟子を一人もとらなかったが、男子に恵まれなかった為、武才のあった甥の祖堅方範にのみ、その技を伝えた。こうして松村一族四代に継承されたその首里手を、祖堅は後に「少林流松村正統」と名付けている。

祖堅は松村継投の首里手だけではなく、「米須ウシ翁」より多くの古武術も伝授された。米須の師は「津堅マンタカ」と呼ばれる人物で、古武術の大家「津堅親方盛則」の流れを汲む武術家であり、彼の伝えた型の一つである「津堅の棒」は、古武術家の平信賢氏もその修得の為に、祖堅のもとに訪れているといわれている。当流派では、三代目松村と米須の伝えた古武術を併せて修練することとなる。

尚、少林流松村正統の型と技法は、五代目流派長である「喜納政順」に伝承され、現在に至っている。

祖堅方範の高弟たち

祖堅方範の高弟には7名いた。しかし、高弟たちは互いの存在をあまり知らされていない。理由は、祖堅自身が弟子のレベルに併せて個人指導を行っていたためだ。だから、名前は知っていたとしても互いの交流まではなかった。そんな中、喜納政順と西平向盛だけは違っていた。喜納は1953年に祖堅に師事、西平は1957年に師事している。いわゆる兄弟子である喜納は、弟弟子である西平の良き相談役として交流を行っていた。

その後喜納は、祖堅の拝命を受け沖縄手の統一のため渡米することとなる。一方、西平は沖縄に留まり、祖堅の側で少林流松村正統を守っていた。

喜納が沖縄に帰郷後は再び祖堅のもとで修行を積み、西平もまた喜納と共に修行を積んでいた。いつしか二人が祖堅の高弟として名を知られるようになった。

高弟としての喜納は、祖堅道場の指導者として道場生の指導を行うようになる。道場生の中にはアメリカ人であるGene Briscoeがいた。Gene Briscoeは、とても稽古に熱心だったため喜納は、祖堅のもとへ度々連れていき、一緒に稽古を行うようになった。

1983年、喜納は祖堅より少林流松村正統の継承者と任命される。そして祖堅より師範の称号を受け、正式に道場開設を許されたのは、ただ三人だけとなる。その三人は、喜納政順、西平向盛、Gene Briscoe である。