喜納政順(Seijun Kina)

祖堅方範と喜納政順

喜納政順 10段(Seijun Kina 10-dan)
少林流松村正統空手道 最高顧問

喜納政順(以下、政順)は、1934年(昭和9年2月15日)那覇市壺川に生まれる。
政順がはじめて空手を習ったのは小学校3年生の頃。父である喜納政良(※)に師事し、ナイハンチ、パッサイを学んだ。その後、第二次世界大戦後(1948年:昭和23年)頃に政順は、新川次郎先生(警察官)に師事し少林流系の空手を学ぶ。

1953年(昭和28年)、政順は祖堅方範先生(以下、祖堅宗師)の演武「鎌の手」をみて感銘し、師事することとなる。依頼、1982年(昭和57年)までの29年間、祖堅宗師から空手・琉球古武術を学んだ。明年1983年8月(昭和58年)に祖堅宗師から少林流松村正統を継承する。

(※)喜納政順の父である政良(1892年(明治25年)生まれ)は、那覇港の沖仲仕の頭であった。父政良は実戦唐手家として知られる本部朝基(本部サール)に師事し「唐手」を学んでいる。本部先生曰く「唐手はナイハンチ1つで十分だ」という持論で、父政良はハカナーヌーチーク(墓庭)で稽古を行った。当時は道場代わりにハカナーヌーチーク(墓庭)で稽古している。父政良は本部朝基(本部サール)から学んだ空手を政順(喜納政順)に伝えた。

略 歴

1953年、祖堅方範に師事する。

1967年、祖堅先生の拝命によりアメリカ・カルフォルニア州に派遣される。

※当時のアメリカにおける空手界は、沖縄の空手とは全く異質なものであった。例えば韓国のテコンドー、香港のカンフー、中国の太極拳、その他一部日本からの留学生達も入り、乱れたものを空手と呼んでいたようだ。また沖縄の空手が、日本の柔剣道と同じように、明治初期に発展された武術として誤解もされていた。それらの誤解を説くために、又、真の沖縄の空手を伝える為に政順は、当時の沖縄県人会の文化部長、外間現栄氏とテド大城氏の助言をもとにアメリカにおける道場の看板を超党派で沖縄手(Okinawa-Ti)として掲げ、沖縄手(空手)を伝えることとなる。

1968年、サンタモニカでブルース・リー(李小龍)主催の大会に招待され演武を行う。

※この大会会場で政順は、サイの型とパッサイ(小)を演武した。同大会には、宮平勝哉先生の門弟である伊波清吉氏も五十四歩を演武した。それらの演武を見たブルース・リーは友情演武として、太極拳型の一部と、氷割りを披露してくれた。

喜納政順の空手画像

※この大会で全日本空手連盟の大島勉先生が、挨拶の中で沖縄の空手を紹介して下さった。それは大会の度に行われたようで、沖縄の空手が浸透する良いきっかけとなった。又、ロサンゼルスに本社のあるスポーツ週刊誌「Black Belt」も同様に、空手は沖縄が発祥である事を伝えてくれた。これらの協力者と政順の活動により、空手は沖縄が発祥の地である事が知れ渡るようになり、数年で各州の道場に浸透した。

BLACK BELTの表紙に喜納先生が掲載される

1969年(昭和44年)、政順はネバダ州ラスベガス警察の推薦者ヘンリー与田先生(日系2世)、同じくジーン・ブレスコ(Gene Briscoe)両氏の招聘により、 『少林流松村正統沖縄手』としてラスベガスに道場を開設。当時から現在に至るまで門弟の過半数は警察官であり、沖縄空手の稽古に日々励んでいる。この道場は現在、2代目ジーノ・ブレスコ(Gino Briscoe)が継承している。

現在、喜納政順は沖縄の『少林流松村正統錬成館』を拠点として少林流松村正統を伝えている。

沖縄県空手道古武道連盟における経歴

・1988年 常任理事として就任
・2003年 副会長に就任
・2004年 体調不良により副会長を退任
・2005年 理事に復帰
・2011年 常任理事として現在に至る


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