首里手古武術の歴史

空手の発祥が沖縄(琉球)であることはよく知られていることです。その空手が世界的な普及発展をみせ、今や空手愛好者は世界で190カ国にものぼり、その数は推定1億人といわれています。

そんな空手は元来『手』と呼ばれ、三系統に分かれて発達してきました。まず、琉球王国の首都であった首里を中心に士族の間で秘密裏に継承された「首里手」、王府の貿易港、塩田として栄えた泊を中心に継承された「泊手」、商業の中心地、貿易港として栄えた那覇を中心に継承された「那覇手」の3つに分かれています。

現在、日本にある空手と認められた流派はこの三系統のいずれかに属するものです。中でも、最も歴史の古いのが首里手であり、その技法を完成させた中興の祖と呼ばれる人物が「松村宗根(1809年~1899年)」です。松村は王家の武術指南役を務め、また公には国史として中国福州や薩摩藩へと派遣されるなど、まさに文武両道の君子でした(文武一如)。

少林流松村正統の流れ

当時の沖縄(琉球)では武人が広く門下生を募り、道場を構えることは一般的なことではありませんでした。その為、松村の高弟には終生弟子を取らなかった者が多いです。松村の息子や孫もまたそうでした。松村直伝の首里手・古武術は、当然その息子や孫にも伝えられましたが、二代目松村は早世している為、孫にあたる三代目の松村虎寿(通称:松村ナビィー翁)はその技の多くを晩年の松村宗根から直伝されました。しかし、三代目松村ナビィー翁も弟子を一人もとらず、また男子に恵まれなかった為、武才のあった甥の 祖堅方範(以後、祖堅)にのみ、その技を伝えました。こうして松村一族四代に継承されたその首里手を、祖堅は後に「少林流松村正統」と名付けています。この少林流松村正統の型と技法は後に 喜納政順 に継承されました。

祖堅は松村系統の首里手だけではなく、「米須ウシ翁」より古武術も伝授されました。米須の師は「津堅マンタカ」と呼ばれる人物で、古武術の大家「津堅親方盛則」の流れを汲む武術家であり、彼の伝えた型の一つである「津堅の棒」は、古武術家の平信賢氏もその修得の為に、祖堅のもとに訪れているといわれています。当道場(少林流松村正統錬成館)では、三代目松村と米須の伝えた古武術を併せて修練することとなります。

祖堅方範の高弟たち

祖堅方範の高弟には7名いました。しかし、高弟たちは互いの存在をあまり知らされていません。理由は、祖堅自身が弟子のレベルに併せて個人指導を行っていたためです。ですから、名前は知っていたとしても互いの交流まではありませんでした。そんな中、喜納政順(以後、喜納)と西平向盛(以後、西平)だけは違っていました。喜納は1953年に祖堅に師事、西平は1957年に師事しています。いわゆる兄弟子である喜納は、弟弟子である西平の良き相談役として長きにわたり交流を行っていました。

その後喜納は、祖堅の拝命を受け沖縄手の統一のために渡米することとなります。一方、西平は沖縄に留まり、祖堅の側で少林流松村正統を守っていました。喜納が沖縄に帰郷後は再び祖堅のもとで修行を積み、西平もまた喜納と共に修行を積んでいました。それから、いつしか二人が祖堅の高弟として名を知られるようになりました。

高弟としての喜納は、祖堅道場の指導者として道場生の指導を行うようになります。道場生の中にはアメリカ人であるGene Briscoeがいました。Gene Briscoeは、とても稽古に熱心だったため喜納は祖堅のもとへ度々連れていき、一緒に稽古を行うようになりました。

1983年、喜納は祖堅より少林流松村正統の継承者と任命されるようになります。そして祖堅より師範の称号を受け少林流松村正統の伝承につとめました。